第18回当事者研究会


 今回は、伊勢崎市市民プラザに会場を移し、『暇と退屈の倫理学』の國分功一郎先生(高崎経済大学准教授)をお招きして開催しました。強風と「煙霧」という悪天候の中、約30名の方にご参加頂きました。

 

午前の部:國分功一郎先生講演「中動態の世界」


 本日急遽特別ゲスト講演をして下さった國分先生との出会いは、ピアリンクスタッフのツイッターからでした。スタッフの一人が、國分先生の著書『暇と退屈の倫理学』が先生自身の当事者研究になっているのではないかと興味を持ったことから、本日の講演につながることになりました。國分先生も“マグロ系”の苦労(暇や退屈に耐えられず動き回らずにはいられないといった苦労)の持ち主で、“マグロ系”の話や、「中動態」という世界についてお話がありました。とても興味深い話で濃密な時間でしたが、HP文章担当の島田はこれを全て紹介する文章力を持ち合わせていないので、こちらではその一部をご紹介したいと思います。

 


 雑誌『精神看護』で、当事者Hさんはリストカットについて「自分の腕を切らされている」と語っています。中動態とは、このように、能動態(する)でも受動態(される)でもなく、一見自分で「している」ようにみえるが「されている」ような、そんな感覚を持つような態度のようです。しかし、こうした感覚は皆持っているはずなのに、それを適切に表現する言葉が見つかりません。言語の歴史を辿ると、「能動態」と「中動態」の関係性が中心であったはずなのに、いつの間にか「能動態」と「受動態」という厳密な対立に変化していったそうです。この変化の過程には、「責任」という概念が関係しています。人間が増え、社会が大きく形成されるに従って、「誰が」という行為の主体を明確にせざるを得なくなってきたというのです。この問題が特徴的に現れるのは司法の現場です。「誰が」殺したのか、「殺意はあったのか」等、厳密に判断されます。

 また、國分先生は、最近の新自由主義社会で求められる人間像(「キー・コンピーテンシー」)についても言及していました。それは、一言で言えば「どんな刺激にも耐えられる人間」です。しかし、そもそも刺激(サリエンシー)に耐えられないのが人間であり、刺激に耐えられないから習慣化し、自分を守っているそうです。

 國分先生は、「責任に議論しすぎて人間が単純化しすぎている」と警鐘を鳴らしていました。

 なお、この日の研究会の様子は雑誌『精神看護』に掲載されるかもしれませんので、詳しくはそちらをご参照ください。

 

午後の前半:全力疾走の苦労、マグロ系の研究


午後は全力疾走で苦労している、いわゆる「まぐろ系」を研究していきます。

はじめにマグロ系専門家である島田さんに全力疾走のメカニズムを紹介してもらいました。

 

島田さんは認められたい欲求から、切羽詰まって大変なのに「大丈夫です」と言ってしまいます。また、このままの自分ではダメという自己否定感が強く、周りを伺いながら仕事を引き受けます。「なんで自分だけ!」という怒りの感情などはもやもやさせたままひとりでため込みました。

 

マグロの共通点として「相談できない」ことがあるようです。相談という発想がなく自分のことは自分でやるという「自力」に頼っていたことが分かりました。

 

実際のマグロの研究によると、あのありえないスピードは周りの水を障害として「自力」で突っ切るのではなく、味方につけて出しているとのこと。真のマグロは「他力」ということがわかってきました。

 

全力疾走マグロ系の新たな研究テーマが生まれました。「自力」で突っ切るのではなく、仲間の力を上手に借りながら「他力」になることです。

 

午後の後半:ライブ当事者研究、話しかけられない苦労


後半はライブ当事者研究を行いました。

テーマを出してくれたKさんはデイケアでの人間関係の苦労をお話ししてくださいました。デイケアに居ると「自分は嫌われているのではないか」というお客さんが来て、みんなの輪に本当は入りたいのだけど声をかける事ができません。

 

皆から「話しかける練習をしてみたらいいよ」とアドバイスを頂き、話している輪に話しかける練習をすることにしました。

 

まず村岡さんにモデルを見せてもらい、Kさんが練習をしました。

 

練習に加わった皆から「自然にとけこんでいた」といった感想をもらいました。言葉をもらったKさんも「練習できて良かった」と安心された様子でした。

 

今回も内容盛りだくさんの研究会でした。國分先生のプロフィールを見ると私たちとはかけ離れてしまう存在に感じましたが、実際にお話をしてみると共感しあえる部分がたくさんありました。國分先生と皆さんとともに研究会ができてうれしかったです。